毎日悔いのないように生きる大事さを、娘(2歳)から学んだ。

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静かな土曜日

昨日は土曜日。僕は土曜日も不定期で仕事があり、いつもは妻が子どもと一緒にいる。今は妻がつわり中で子どもと一緒にいられない状況になっていて、通っている保育園に土曜日保育というものをお願いしている。

土曜日保育は平日とは違っていて、1つのクラスに全学年の子供が集まっていた。ほとんどが年少から年長までの園児で、僕の娘と同じ2歳は2人だけ。1歳より下の子どもも2〜3人しかいなかった。いつもとは違う環境で緊張こそあるものの、普段は遊ぶ機会のない年上のお姉ちゃんやお兄ちゃんと仲良くなれる機会はとても刺激的で、数回預けているとちゃっかり仲良くなっていて、子どもの凄みを感じていた。

土曜日の保育園とは違うひっそりとした装い。登園の自転車も車もほとんどないそんな保育園に子どもを預ける。普段は大勢いる先生も二人だけ。先生は妻を心配してくれていて、大丈夫ですか?と声をかけてくれた。娘はスッとおもちゃで遊び、いつものように僕が「バイバイ!お仕事行ってくるね」というと、娘は振り向いて「バイバイ!行ってらっしゃい」と送り出してくれた。

自転車に乗って、珍しく飲み物を買いにコンビニに立ち寄る。すると、いつもの朝とは違って多くの家族連れがいた。最初僕はそのことに気づかなかったけど、おそらく緊急事態宣言が明けて2回目の土日ということもあって、多くの家族連れがどこかに出かけることに気づいた。車でお出かけをする前にお菓子や飲み物を買うんだろうと。

1日の価値がいつの間にか変わっていた

そこで、僕はふと、最近、自分にとっての1日の価値がとても重くなったと感じた。

歳を重ねるうちに、自分の1日の使い方が消費に偏っているように感じていた。仕事も生活もあまり変わることがなく、安定してきたのかもしれない。安定というと聞こえはいいけど、惰性で暮らしているような気もする。もちろん子どもと遊んだり自分の時間を作ったりして、毎日の中に楽しみはある。

でも、僕の娘が2歳である今は、今しかないのに何をしているんだろうと感じた。同時に、子どもは寂しい思いをしているんじゃないか。僕も寂しい思いをしながら仕事に行っていることに気づいて、何かに申し訳ないと思った。

毎日一生懸命生きて、一生懸命笑って泣いている娘にとっての1日が尊いことは知っていた。でも、その尊さに関わっている僕の1日もまた尊いことには気づいていなかったと初めて気づいた。

来年の秋。順調にいけば僕らは4人家族になっている。35歳の夫婦と3歳の長女、そして0歳の赤ちゃん。ということは、娘と100%の力で遊べる秋は今年で最後だ。そう思うと、いきなり、この土日が貴重なものだと感じるようになった。途端に娘のことを猛烈に愛おしく感じた。コロナ禍で遠くに行くこともできず、ようやく行けるようになったかと思えば僕が仕事で土曜日が潰れる。なんてもったいないんだ。

子どものためじゃなくて自分が勿体無いと思っている時点で、それが子どもへの優しさじゃないと言われるかもしれない。でも、例えそう言われても僕だって人間で、親なんだからこんな感情があってもいいと思う。

そんな娘は、熱を出して保育園を早退した。僕は仕事が抜けられなくて、つわり中の妻がなんとかお迎えと病院に行ってくれた。娘は薬が効いているうちは元気なものの、切れてきたらしんどそうにしている。娘だってとても頑張ってくれている。一生懸命生きてくれていることを改めて感じた。妻も、しんどい中お迎えと病院に行ってくれた。お腹の子どもを守りながら。そんな2人の一生懸命を見て、僕も一生懸命、悔いのないように生きようと思った。

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